The Bridge over division
デザインがもたらす分断への架橋による自律論

廻 はるよ(空間演出デザイン学科教授)

はじめに
非人間という外部性の思考


人新世。産業革命以降の人類の活動の過剰さが、地球上の生態系や地質に過大な影響を与え、そのことによって地球に激烈な変化が現れるようになったこの地質年代を人新世という。地球上の限られた範囲の出来事というのではなく、地球そのものを変質させるほどとなったこの現代の事態は、見過ごしていいはずもない危機的な状況である。

人間中心の世界を繰り返してきた考え方を変化させていくべく、他者の理論というものがこれまでもポスト構造主義の中で議論されてきたが、さらに進んで、現在、思弁的実在論(Quentin Meillassoux,Graham Harmanなど)として人間が必ずしも前提とならない実在論、人間の思考と世界の存在を相関することを批判的にとらえる思想が展開されている。

思弁的実在論の一翼と考えられている、人間以外の他者の存在、人間と生物のみならず物質も含めた非人間を同列で捉えようとする新唯物論において、人間のありようはあらゆるものを対象に巨視的に相対化されていると言えるだろう。

この議論には、社会学的な知見も接続されており、Bruno Latourの提唱した、人間と非人間の、行為をもたらす力を共にアクターとして、権力批判といったマクロへ飛躍せず、その連関(ネットワーク)を地道に見出し考察する、アクター・ネットワーク・セオリーによって方法論を得て、現実社会変革への実装が図られていこうとしている。

認識を変え、方法論を変えていくことで、わたしたちは人新世での危機に立ち向かっていかねばならない。人間のいない世界を想定する思弁的実在論のもつ苛烈さを背負いながら、わたしたちにできることを考えることが当然ながら必要である。

こういった思想的前提をデザイン論に組み込むことは、今後の課題であるとして、少なくとも人間中心の考え方に変更を迫っていくことが重要であることを念頭に、現在のデザインの果たすべき役割と位置について、以下の論考にて考えることとする。

The Bridge over division
デザインがもたらす分断への架橋による自律論


2021年を向かえる現在、この社会において個人と複雑な産業資本社会はディバイデッド(分断)な状態にあるといえる。都市のインフラや建造物は、個人レベルで変革ができるしくみにはなっておらず、また、インターネットを通じた様々なシステムも含め、高度な技術で構築されたものは、産業側から与えられて消費するしかないのが、個人が置かれた位置である。このことが消費者を受け身にし、自ら考えることを放棄させているとも言えるだろう。

近代産業社会は、個人から生産力を収奪するようなかたちで成立してきた。小さなものづくりの現場では、一度にたくさんの一定レベルを保った均質な商品は生産できない。しかし、モノのない時代には、人々に向けて一度に多くの均質な商品を大量に供給する能力こそが必要であった。小さなものづくりの現場は淘汰されるしかなく、生産は個人の暮らしの営まれるまちのレベルから大規模工場へ移り、人々の目には見えない場所へと行ってしまった。20世紀の後半には、それが海外移転していき、個人は生産がどこでどのように誰によって行われているのかもわからないまま、ただ、大量に供給されるモノを消費しては捨てるだけの存在となった。それらのどこでだれが作ったのかもわからないものは、愛着のもてないものともなり、廃棄に対する感覚を麻痺させている。また、もし、壊れたモノを修復しようとしても、気軽にできるものは少なく、結局廃棄せざるをえず、この大量廃棄社会に拍車をかけることとなった。

この大量消費・大量廃棄の問題は、大きく地球環境の劣化にも影響している。エネルギー消費や処理しきれない廃棄物による直接の環境汚染や、都市化や資源開発に起因する生態系の破壊による生物種の大量滅亡などさまざまな危機をかつてないほどのレベルで引き起こしている。このことへの対応も当然のことながら喫緊の課題である。

この状態を引き起こしている大元となる個人と産業資本社会とのディバイディッドな状況を変化させていくことがデザインのひとつの役割であると考えられる。生産に対する考え方を変革し、両者をブリッジしながら、再構築していかねばならないと言えるだろう。その方法として、個人と大きなシステム・インフラの間に個人が生産にアクセスできるしくみを持つことが考えられる。

そもそも現代の社会は、変化が激しく複雑な問題が多い。決定が迅速で、実験的に対応策を試みて、そのメリット・デメリットを判断しながら、その解決策を恒久策に変えていくような方法を考えていくことも必要である。その時に、大きな資本をかけたり、公的機関の決定を待っていたりすると、変化においつかない可能性もある。まずは、つくってみて、試してみる、そういった動きも必要である。

この短期的な社会実験の先行研究として「Tactical Urbanism Short-term Action for Long-term Change」(Mike Lydon,Anthony Garcia)が有名である。日本でも、これをきっかけに戦術的な公共空間の活性化の実践が各地で行われている。

そして、そういった社会実験的な場のための生産ができる場所としてFAB LABやシェア工房が世界で設立されている。簡単なハンドツールとデータ共有しながら作れるデジタル制作機器(レーザーカッターや3Dプリンターなど)が置かれており、個人の楽しみによるものづくりから、販売に提供するものづくりまでさまざまに行われている。

小さなコミュニティーの場づくりであれば、こういったラボで制作したような什器や家具で、その運営を始めることができる。低価格で、一般的な技術で行うことが可能である。少し故障しても、すぐ作り直すことができ、廃棄したり、新たに費用を使う必要もない。関わっている人間がつくれることで、当事者たちがどのようにしていけば、一番いい場がつくれるか、という考えを反映させていくことができるので、自らの意思でものごとを考え、制作・行動していくことが可能となる。

日本で考えられた皮のスリッパがアフリカでデータ共有によってつくられ、その土地の魚の皮でつくられたお土産となった例がある。ショッピングモールでまず買う、といった行為がなくても、商品を共有し、世界で愛されるモノができたりする。

身近なところに生産現場があり、いいな、と思うものをつくったり手に入れたりすることができる。それは、自分が自らすすんで制作したり、制作にかかわったりした愛着あるものであり、故障してもリペアできるロングライフな生活用品である。そのように自らつくることは、受け身となっているだけでなく、自律して自分で考えて動くその動機をつくることでもある。

自らつくるということは、思考停止や目的喪失を退け、自律した存在となることであると言える。簡単に捨てないこと、修復すること、アイディアを共有し、他者の役に立つことで、自分の存在意義を確認することにつながっていく。単なる回顧趣味的なものづくり礼賛ではない。

この自律した存在となる人間が、都市において、あるいは地域において必要な道具は自分たちで制作することもしながら、素早く自分たちに必要な社会実験あるいは実践をしていく。そういったTactical Urbanismによるようなコミュニティの創造の場があることによって、対話や活気も生まれそこからさらに新たな活動が生じていくことが可能となるだろう。

Fab Labのような市民のものづくりの場は、そこで必要なものを自らつくり出す場所であり、再生産やリペアで循環させる場所でもある。さらに言えば、そこもものづくりのコミュニケーションの場であり、ここからまた、新たなムーブメントが起きていくのである。

個人でできることをするための場を自らつくる、という自律的な行為によって、個人はモノや活動の生産者となっていく。そういったこれまで分断されてきた人と産業資本社会の在り方を再構築していくことこそ現代のデザインの役割であると言えるだろう。

そして、既存のモノの在り方をもう一度問い直すこともまた、自らつくるという、ディバイディッドな状況へのブリッジの意義である。今ある工業製品や便利のためにつくられたモノたちでなければ本当にだめなのか、ということを考えることが必要である。

シルクロードの周辺地域でつくられた生活道具に布に漆を塗って器としたものがある。砂漠の地では、焼き物をつくることもハードルがあるのだろうが、身近な不要の布と漆によって水をもらさぬ器ができることを見出していた。このように原点から、モノのなりたちを考えていくことで、新たな道具をつくることができるし、かつ、土にかえるモノであることは、廃棄したとしても循環していくことが可能である。

何でも便利を追求したモノや完成されたモノである必要はなく、暮らしを満たしていくことができるものは、工夫の中で発見されていく。そのことが、先に述べた自律を促し、より一層暮らしを自分のモノにしていくことができるようになるだろう。

すべてを原始的にしていくといったことでなく、すべてを与えられたままに受動しない、ということが必要である。それらを気づかせてくれることが、原点的なモノづくりやそのプロセスの中に多くの知見として生きている。

自分でたたら製鉄を試みた学生がいたが、大量の蹉跌からできた鉄はわずかであった。それをもってして、人々の生活に寄与するというのは難しいだろうと思うが、そうではなく、蹉跌は川にあり、火をくべて製鉄をすれば、人が手で作った炉で鉄がつくれるそのプロセスに感動がある。さまざまなことは、自分の手で成り立たせることが可能なのだ、ということである。できることをすることで、自律が生まれ、生活が変化する。そのことがすべての原点となっていくと言えるだろう。

この分断は、産業資本社会だけでなく、自然環境との間でも起きている。先に述べた地球環境の劣化は激烈なものがある。ここでも私たちは、受動的に快適や合理性を追い求め、与えられるがままに消費し、地球への負荷を過剰にかけ続けた結果起きていることは明白である。

こんなに甚大な被害を引き起こす台風が毎年来るようになって、やっと、本気で取り掛からねば、と思うこと自体だめであるが、この10年が私たちの最後のチャンスなのだろうと思う。 どれくらいの目標値を、どのように達成していけばよいのかは、政府主導でしっかりと明示してもらいたいが、わたしたちは、まずは、自然環境と自分たちを一体的に考え、負荷を減じて、循環的に生きるしくみをあらゆる場面で構想して実行せねばならないと言えるだろう。

食卓に世界中からとりよせた食材を並べて暮らすような過剰な時代はもう、終わりである。ジェットエンジンを燃やしても運ばねばならないものは当然あるであろうが、食材は身近な地域での地産地消で十二分においしいものが食べられる。時に、日本にはないフルーツを食べたりすることもいいと思うが、主たる食材は地域のもので十分だし、そのことで地域を活性化することにもつなげていける。スーパーに並べられない歪んだ野菜なども、地域のマルシェで販売して、廃棄処理を極力なくしていけるようにすべきである。

Markthal Rotterdam
大型屋内マルシェ 世界の食材と自国の食材


農業ロボットを活用すれば、自分の家の庭程度でも、働きながらでも、野菜を育成することは今後可能になっていくだろう。自分でできることは自分でする、この自律性は、自然循環社会にも生かされていく。また、日本は仮想水の消費が世界で1位という水の過剰消費国である。無害な水が飲めない人々がいる中で、世界中の水を消費したりすることもまた辞めていかねばならないだろう。他国に農作物を依存することは、そういうことを引き起こす要因なのである。

また、ペットボトルのように土に還らない物質の過剰消費は、海洋汚染からマイクロチップとなり人体汚染にまで及んでいる。リサイクルからあふれているペットボトルの消費をなくすためにも水筒を持参して自分で水を求めるようにしていけばよい。

自国の資源利用で考えれば、高層ビルの木造化が可能になったという建築技術が紹介されていたが、高層ビルかどうかはともかく、木造構造物を主体として、日本の山林資源を整備することを本当に真剣に考えていかねばならない。

例えば、内装の仕上げを自分たちでやることで、コストをカットしてでも、日本の木材を使って林業を活性化して治山していかねば、土砂くずれや倒木被害を抑えていくこともできないだろう。木材の活用は、CO2の増加にもつながりにくい。大いにメリットがある。 また、都市における自然環境と生態系の再帰も重要である。ランドルフ・T・へスターの唱える「エコロジカルデモクラシー」は、経済と合理性の追求でできた現在の都市は、その地特有の自然や生態系を無視して、均質な成長を果たしてきた。

また、人々が集う場や賑わいも同時に整備というかたちで奪われていったことで、コミュニティも弱体化した。その両方を取り戻すことで、都市は再生していく、と説く著作である。ここでも自律した市民を取り戻すことの重要性が説かれている。大いに参考となる思想であり、実践集である。

分断は個人と都市や地域コミュニティにも及んでいる。それは上記「エコロジカルデモクラシー」でも指摘されていることであるが、生活が便利やプライベートという名で個別化され、共同で行うことが減ってしまい、近隣住民同士のコミュニティは弱体化している。しかし、近隣のみにコミュニティを依存するとやはり重いものになってしまう可能性もあるので、さまざまな興味から、集うことのできる居場所的な「共」の空間が必要になっている。

幼稚園にカフェが付属している例があるが、地域の人も、子供を預ける親も利用でき、いろいろな人と交流が可能になっている。時には子育ての相談などもできることだろう。お寺をゆっくりと時をすごすための場として開放したものもある。そういった、自分で選んで行くことのできるコミュニティを持つことで、自分ひとりではなく、そっと支えあう、という感覚を持つことができるだろう。

逃げ場のない地域コミュニティだけであると、しんどさもあるが、サードスペースの利用で、自分を取り戻し、地域の活性化にも一役買うことができるようになるだろう。自ら動き、受動性のサービスを得るのでなく、自律してコミュニティに関わっていく。その行動が大切なのである。 これもまた、都市における分断への架橋として、デザインが果たす重要な役割と言えるだろう。